どこか虚しい北京オリンピック
令和4年、2022年2月4日(金)、北京で冬季オリンピックが開幕した。夏冬同一都市での初めての開催地となったらしい。
新型コロナウイルスの影響で延期された東京オリンピックが去年の8月に開催されたばかりだから、オリンピックだらけの不思議な感じだ。
もともとオリンピックにさほど興味があったわけではないけれど、東京オリンピックのコロナを巡る発言やカネ騒動でさらに興味を失った。
スポーツを通して平和で平等な社会を目指す象徴には程遠いオリンピック。今回も「分断の五輪開幕」の見出しが新聞に踊るほどだ。
台湾問題、新疆ウイグル自治区問題、南シナ海問題、尖閣諸島問題などなど、中国が発端となっている周辺問題は深刻だ。もう少し東に目を向ければ、NATO vs ロシアに端を発するウクライナ問題では今にも戦争が始まりそうだ。どこもかしこも問題ばかり、明るいニュースはまるでない。
そんな社会の虚しさにオリンピックが拍車をかけている。そんな気がしてならない。
オリンピックと父の死
オリンピックという言葉を耳にすると、いつも思い出す亡き父の呟きがある。
「次のオリンピックはみれないかもしれない」
1998年の長野オリンピックをテレビで観戦しながらそう呟いた父の言葉が忘れられない。その呟きどおり、父は2000年のシドニーオリンピックを見ることなく亡くなった。
今年の3月で父が亡くなり22年、23回忌を迎える。長野オリンピックの時、父はすでに自分の死を察知していたに違いない。余命のある病気ではなかったはずだけど、もしかしたら本当の病名とは別に父しか知らなかった病気があったのか。
いや、人間は時として、科学では計れない力を発揮する。きっと父には自分の未来が手に取るようにわかっていたのかもしれない。
北京の次は、2024年の夏季五輪inパリ、そして2026年が冬季五輪inミラノだそうだ。6歳になった君と、8歳になった君とオリンピックの話をしよう。
僕はきっとまだ死なない。まだ死ねない。
【おわり】